2017-06-07 第193回国会 参議院 天皇の退位等に関する皇室典範特例法案特別委員会 第2号
戦後、昭和天皇は人間天皇として日本国憲法の定める新しい象徴天皇としての役割を橋渡しされ、昭和の時代を終わられました。 今上天皇は、常々、忘れてはならない四つの日として、終戦記念日、広島と長崎の原爆忌と並び、六月二十三日の沖縄慰霊の日を挙げてこられ、毎年その日は御家族で祈りをささげておられます。
戦後、昭和天皇は人間天皇として日本国憲法の定める新しい象徴天皇としての役割を橋渡しされ、昭和の時代を終わられました。 今上天皇は、常々、忘れてはならない四つの日として、終戦記念日、広島と長崎の原爆忌と並び、六月二十三日の沖縄慰霊の日を挙げてこられ、毎年その日は御家族で祈りをささげておられます。
そして、昭和天皇の一生を通じて一番幸せだったのは、あの戦争直後、人間天皇と言われて全国を、国民の間を、本当に国民と接しながら会話をし、回られたとき、あのときが一番昭和天皇の幸せなときだったんじゃないかなと思っています。 そうしたことも何か復古調の中で同時に取り上げられてくると問題だと思います。 もう一つ、憲法改正という声の中で、国際貢献ということを重視する声があります。
それは、人間天皇としての意思というか、もっと言いかえれば、天皇の立場に立って考えたときに、新しい時代を見詰めて国民がどう配慮していかなきゃいけないかという、そこの視点が欠けているんじゃないかなというふうに思うんです。
昭和天皇は決してそれを考えていなかったというわけではございませんけれども、昭和天皇の場合はやはり途中から、元首にして政治を総攬するというようなことから、人間天皇になって象徴天皇になったものですから、なかなかその転換がうまくいかない。それから、転換は、御本人だけではなくて側近もうまくいっていないですよ。そういう問題がありまして、なかなかうまくいかない。
そういうような大きな変化がございますが、変革のシンボルといたしまして、明治維新の場合、皇居の移転、版籍奉還、明治憲法という変革のシンボルがございまして、昭和維新では、人間天皇、GHQ、昭和憲法というシンボルがございました。平成維新でも国会移転というシンボルが必要ではないか、このような歴史的な認識をいたしておるということでございます。
昭和維新では、人間天皇、GHQ、昭和憲法というシンボルがございました。このたびの平成維新には変革のシンボルがやはり必要である、そのために国会を移転するということは大きな意味がある、こういうことでございます。また、移転先の都市はその平成維新のシンボルになるような都市にしなきゃいけない、かように私たちは考えております。
昭和維新におきましては、敗戦後、人間天皇宣言というのがございました。平成維新は、それに相当するこの国会の移転というようなシンボル的な出来事が国民意識の変革の上で必要ではないか、このように思うわけでございます。 明治維新は、確かに、東京に首都がございまして、その首都がビッグ・アンド・ストロングというように、大きくかつ強力な中央政府機能を果たしました。
直接お聞きしていないということは前提にいたしましても、やはりそう間違った報道をされているとは私思わないわけでございますが、新憲法というのは、いわゆる神としての天皇ではなく人間天皇ということでスタートして、今、大臣もおっしゃいましたが、主権在民ということでございます。
昭和に入りまして、敗戦後、人間天皇宣言がございましたし、いわゆる駐留軍、その本部であるGHQ、これが戦後の民主革命の象徴的な姿でございました。そして、昭和憲法というものが制定されて、自由とか権利というものが大きくクローズアップされました。
警備の問題についても、あの昭和天皇が終戦直後いわゆる人間天皇と言われたときに、もう民衆の間にもみくちゃにされながら各地を御訪問になった。あのときが私は昭和天皇の御一生の中で一番楽しいときだった、楽しいという言い方はあれかもしれませんが、私はそういう気がいたします。
とりわけ、終戦後の混乱した中で、人間天皇として全国を御巡幸されまして、打ちのめされた国民に希望を与えていただいた。そして、あの荒廃の中から私たちの先輩は今日の日本を築き上げていただいた。何かしら世界の中のリーダーの一翼を担う、こういう日本を見届けられての御崩御のような思いをするわけであります。
そういういろいろなことをなにしていったときに、それは昔と違って人間天皇になった。だけれども、そうは言ってもいろいろな面でやはり国の象徴としてむしろいろいろと制約しておる方が多いと思う。極めてごく一部自由の面もあるけれども、自由はないと言った方がいいくらいに天皇の生活というものは規制されているわけなんですね。
そして、もちろんいわゆる人間天皇宣言と言われました例の二十一年一月一日のあの布告、これ等に基づきまして、二十一年の十一月十六日には早くも文部省は当用漢字というものを制定をいたしました。これは、御存じのごとく日本の漢字は難し過ぎる、そういうことではよき祖国再建はできないので漢字のごときは簡便にしようということでございます。 しかし、これは大臣、この後があるのですよ。それは一つの段階。
これは戦後四十年たっておる今日、人間天皇を宣言なさって、できるだけ国民との開かれた皇室づくりというのが基調になっておるはずであるだけに、私はやっぱり非常に残念なことだ、そう思うんです。
私は今、これはどこに原因があるのかどうもよくわからないんだけれども、戦後に天皇が三万六千キロかな、全国を人間天皇の宣言のもとに歩かれた。
○小林(進)分科員 天皇陛下は御在位六十年、そのうちの二十年は明治憲法下において現人神として日本の政治を総攬をされたわけでありまするし、四十年は主として、戦争に負けてから新しい憲法が制定せられてそのもとに人間天皇として御在位になったわけでありますが、新憲法下における、概算四十年に満ちたのでありまするが、その御在位の天皇の御業績というものは実に御立派といっては少しなにかもしれませんけれども、尊敬に値する
天皇だけが泣きながら人間天皇を宣言して、二度とこういう辱めを民族に受けさせないために責任をかぶったのだと私は思います。道義的な意味において、やはり日本民族の表徴として、山本玄峰老も、妙心寺の管長を務めた人だが、進駐軍の将校に問われたとき私と同じやっぱり見解を述べております。楢橋君が立ち会っているからわかっていたはずです。
そういう形において進むことも退くこともできなかった明治憲法、ドイツのプロシア憲法よりも、ビスマルク憲法といわれるものよりももっとひどい、神がかり的憲法によって、無条件降伏にまでいってもだれも責任を持てないようなぶざまな無責任体制の憲法をつくり上げ、天皇をして慟哭せしめて、人間天皇を宣言し、その上で国民に訴えて再び戦争はしないという誓いを立ててつくったのが、敗戦によってもたらされた日本の平和憲法です。
徐々に、ヤルタ協定の秘密協定の真相というものは、ルーズベルトが死んだ後にチャーチルという老獪な政治家一人だけになっちゃっては大変だというので漏らし出したのでありまして、中国の外交を担当している朱子文すら、アメリカとソ連との間にヤルタ協定というものがつくられているらしいという情報をキャッチしてから米ソの間を往来して、そして真相をつかまえようとしたが、日本が八月十五日に無条件降伏への道、天皇みずからが人間天皇
昔は上杉慎吉流の単純なあれで済んだかしれないけれども、明治憲法に対する思慕の念はわかるかしれないけれども、最後に天皇に大きな恥をかかせ、人間天皇となって国民とともに訴えて、再び戦争はしないといって憲法を制定した天皇は、憲法改正をするときには辞職しなきゃならないのです。信義ということがあらゆる道義の根幹です。